渦巻く不安と神社へお礼参り
身内がある国家試験に合格した。
数年がかりの夢が叶ったのだ。
本当は、もろ手を挙げて祝福したいところだったのだけど・・・。
諸事情があって、喜びが半分になってしまった。
いろんなことの化けの皮がはがれてきて、隠されていたことがあらわになってきて。
どうにかして、いい方向にもっていきたくても、全然みんなの足並みがそろわなくて。
混沌とした状態に陥っている。
みんながそれぞれの正義の元、自分の主張を押し通そうとする。
譲れないところが大きすぎて。
みんなが自分が正しいと思ってるし、みんな自分が被害者だと思ってるし。
なんとか落としどころ見つけて、再出発ができたらいいと思うところだけど。
許しがたいことやとてもじゃないけど受け入れがたいことが事実起きてしまっているし。
過去は変えられないから。
これからなんとかしていこうと前向いてがんばろうとしているなら、応援してあげたいとこだけど。
過去を完全になかったことにして、反省することもなく、しょれっとやり過ごして、断絶することを選び取ろうとしている。
人間って、一人で生きていけるのかな。
一人で生きてきたって思ってるかもしれんけど、いろんな人に助けられて生きながらえてきているのが事実だと思うんだ。
一人でなんでもやっていけるって思うのは、正直おごり以外の何物でもないと思う。
人間は、失敗したり間違えたりすることはある。
それはしょうがない。
一度の失敗や過ちで全て否定をするのは間違っていると思うから、なんとか前向いて生きていこうとするならば全力でサポートしたい。
でも、自分の過ちを全く認めないまま、何もなかったことにして、全てから逃げようとするのはどうかと思う。
このままいくと、わたしは突然ある人の子供を育てないといけない可能性がでてきたのだ。
かなり現実味をおびてきている。
結婚もしたことなく、子供も産んだことのない私が、突然母親代わりをやらなくてはいけない可能性が出てきたのだ。
なんてことだろうか。
私が、結婚もせず、子供も産むことがなかったのは、こういう結末を迎えるためだったのだろうか?
重く重くのしかかってくる現実。
まだ確かなことではないけれど、杞憂で終ればよいけれど。
ぐるぐると不安と恐怖で頭がいっぱいになりながら、神社へ試験合格のお礼参りに行った。
電車の中で、ずっとずっと不安と戦っていた。
その神社は、私が二十数年来お世話になっている心のよりどころのような神社。
何かあるたびに、お参りしている。
今回もこの心のもやもやをお伝えしに行ったわけだ。
神社に行くと心が本当に休まった。
運命を受け入れるというか天にゆだねるというか。
執着や拒絶の気持ちを手放す。そんな心境になれたのだ。
もうなるようになるしかない。
将来を不安がってばかりいずに、今を充実させて楽しく生きて行こう。
もし何か運命が決定的な状態になったときは、そうなったときで受け入れよう。
みんなの願いは同時には叶わない。
誰かの願いが叶うときには、きっと誰かが泣いている。
自分がもし泣く側に立ったときも、それが定めと受け入れよう。
なんかそんな風に思えた。
一人で生きてるわけじゃないから、誰かの思いで自分の人生が変わってしまうこともある。
自分の人生を全部自分で全てコントロールできるわけじゃない。
捻じ曲げられることもあるし、思った風にいかないことのほうが多いのかもしれない。
それでも、そうなるときはそうなるんだと言い聞かせて、生きていくしかないんだろう。
平穏な日々があとどれだけ続くのかわからない。
運命の歯車が、急加速で回りはじめているのかもしれない。
どうなるのかわからない日々だけど、なんとかがんばっていこうと思う。